門人たちの連携

 長英をかくまう門人たちは幕府による厳しい監視の中互いに連携する必要があった。
彼らがやり取りする伝言は絶対に読み取られてはならない性質のものである。そのため容易には解読されない暗号のようなものを早急に考案しなくてはならなかった。
また安全に連絡を取るためには、待ち合わせても目立たず、人が集まりにぎわう様子が不自然にならないしくみも必要だった。
 彼らは長英の著書やさまざまな分野の蘭学書を多数所有していた。長英の脱獄により多くは処分され、所有していても問題の無い医学書のみが現在まで伝えられる。
失われたこれらの書籍の中には当時ヨーロッパで運用されていた暗号についての記述もあったのだろう。

中之条の門人たちは、蘭学研究の過程で得た西洋の暗号に関する知識を伝言のやり取りに応用することにした。


カルダーノ・グリルの応用

 門人たちが参考にしたのはカルダーノ・グリルと呼ばれる暗号術だった。
カルダーノ・グリル(カルダン・グリル)は分置式暗号を生成・復号するために使われる鍵となる道具のこと。16世紀イタリアの医師・数学者・哲学者ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano)によって考案された。
通常は特定の場所に穴をあけたカード状の道具で、暗号文となった手紙などに重ねるとそこに秘匿された文章を穴から拾い上げることができる。
 長英は天保九年(1838)の「見聞漫録 第一」のなかで日本で最初に西洋哲学史の概要を著している。

ピタゴラスから始まりプラトン、アリストテレス、ガリレオ、ライプニッツなどを紹介し、西洋の学問を五つに分類・整理している。
この著書の執筆にあたっては相当数の資料を参照したと思われ、その際にカルダーノによる著作を知り得たのではないかと推察できる。


カルダーノ・グリル模式図(Wikipediaより) 

 

茶屋を鍵につくられる暗号

 カルダーノ・グリルはあるパターンの穴があれば何を使用しても暗号を生成・復号することができる。中之条の門人たちはその性質に注目し暗号システムを考案したようだ。
彼らが編み出したのは茶屋の建物自体を暗号の鍵とする通信手法であった。

この茶屋は土台の木輪で木製軌条の上を動かすことができる。手前には文字の書かれた行灯が無作為に並ぶ。あらかじめ復号点に定めた場所へ茶屋を移動させると、縦格子の穴から行灯に隠された伝言を読み取ることができた。行灯に書かれた文字全体が暗号文、穴のあいた縦格子がカード状の道具に対応する。

 茶屋は人々が自然に集まり憩う場所。

そのため長英をかくまう関係者が寄り合っても江戸の捕吏に怪しまれない。

長英が今どこにいるのか、次にどこへかくまうのか、江戸からの捜査の手はどこまで伸びてきたか。
門人たちはこの暗号茶屋で連絡を重ね、師の安全のために献身的な援助を遂行していた。