個展 「新田長八の発明品再現計画 (トキ・アートスペース 2004)

「安堀雄文記念館」の原型となった展示です。


 

 新田長八は江戸中期、上州新田郡(にったこおり)綿打村の人。生没年は不詳。日用品や神社仏閣向けの小間物などの製作を生業とする職人であったらしい。新田は本姓ではなく、出生地に由来する通称。綿打村は現在の群馬県新田郡新田町綿打地区。

 長八は当時の大多数の名もない職人同様、世間的な名声や歴史に残るような名品の製作とは無縁だった。今回このような形で取りあげるのは、彼が本業の傍ら、いくつかの特異な発明品を生み出していたと伝えられることに理由がある。

 その発明品の様態は、彼の存在が現在までほぼ忘却されていたことに加え、現物と戦前に記録された資料が戦災で失われてしまったことにより、これまで調査はおろか推測することさえ不可能であった。

そのような状況のなか、失われた長八の発明品の手がかりを求め、地元に残る伝聞の収拾や関係者への聞き取りを続けたところ、戦前の記録資料に直に触れたことのある人物の手による情報の存在が確認された。それらは断片的ではあるが、これまで具体的に推測することができなかった長八の発明品の姿を垣間みることができた。これらの手がかりから浮かび上がってきた長八の発明品を現在の目で検証した結果、驚くべき事に、長八が発明品の製作にあたり二進法的な発想を取り入れていたらしいことや、基本的な論理回路の動作を連想させるような挙動を示す発明品があることも判明した。

 今回の長八の発明品再現計画は、こうした調査結果をふまえ、彼が日本に於けるコンピューターテクノロジーの先駆けになり得たのではないかという仮説の上に推理を進め、ある程度完成した形での再現品の製作を目標にしている。

 

 いわば市井の一職人であるところの長八が、なぜそうした発明品の製作に至ったのかはよく分からない。綿打村の南東方向すぐ隣には木崎宿があり、日光例幣使道と銅山(あかがね)街道という比較的主要な街道が交叉し、江戸時代にはかなりの賑わいを見せていた。銅山街道は綿打村を抜けて足尾銅山へと向かっていた。当時の上州には、ゆかりのある元禄期の数学者、関孝和から始まる関流の門人達が定着しており、彼らと他の地方からやってきた学者との交流や文物及び最新情報の交換が、街道筋の宿場町で行われていた。そして地元の教養人に請われたり、場合によっては半ば路銀を得る目的もあり、しばしば講義のような場も開かれていたようだ。そうした学者達のもとに地元の農民や職人が通っていたという話が数多く残っている。長八もそれらの人々と同様、どこかで算術を学び、やがて何らかの発想を得て、独自の発明品を製作したのかもしれない。

 しかしながら、江戸から遠く離れた農村で、あくまでも個人的な趣味の品物として作られたであろうこれらの発明品は、特に人目に触れることも後世への影響を残すこともなく、そのまま忘れ去られていった。

 

 永く埋もれていた長八の発明品が再び見出されるのは、昭和に入ってからのことになる。長八の死後、残された発明品は、彼が仕事を請け負った関係からか、綿内村北部の石原神社に奉納されていた。昭和14年、当時すでに廃社同然だったその神社に隣の太田町(現太田市)出身のアマチュア郷土史家、荒木文雄が調査に入った。荒木は太田町内の旧中島飛行機関連の会社に勤めるエンジニアで、出身の太田町や周辺町村の歴史的な遺物の記録を趣味としていた。

 石原神社は現在の新田町字市野井付近にあった。明治元年の神仏分離令から始まる神社の国家管理体制整備に伴い、伊勢神宮を中心とする大規模な祭神の統廃合が行われたが、当時の記録にその名が記載されていない。おそらく記紀神話とはあまり関係の無い地域的な信仰にもとづく神社であったために、その信仰が廃れるとともに自然と忘れ去られていったのだろう。

 市野井には旧中島飛行機市野井飛行場があり、関係者である荒木もたびたび訪れている。飛行場の近所に何か奇妙な奉納品のある廃社同然の神社があるという話をどこからか聞きつけた荒木は、石原神社へとやってきた。彼はそこで、分解された状態で保存されていた長八の発明品を発見することになる。しかしその奉納品に関する文書のたぐいは発見出来なかったため、それらが一体何であるのかは、にわかには理解出来なかったようだ。

 荒木はそれから数回にわたって記録を続け、仕事の傍ら、部材に残ったわずかな切り欠きや記された番号を頼りに再組立を試みた。形態からある程度機能を推測出来るものもあったが、全く意味不明のものもあり、ともかく形だけは組み上げることができたのが昭和16年頃だった。

 

 長八の発明品が二進数的な発想によるものではないかという見解を、荒木はかなりはっきりと持っていた。これは荒木自身のそれまでの経歴にも関係している。

 荒木は地元の旧制太田中学を卒業後、東北帝大電気工学科に進学した。当時の東北帝大は「八木・宇田アンテナ」を発明した八木秀次、宇田新太郎がいて、電気通信関係の研究が進んでいた。荒木はそこで当時最先端の電気通信関係の知識に触れることができた。大学卒業後は東京の大手電機会社へ研究員として入社したが、会社の利益にあまり結びつきそうにない研究ばかりして社内での評価が得られなかったことと、元々組織になじめない性質であったこともあり、数年で退社。その後は郷里の旧中島飛行機系列の会社で、数値計算その他の要員として専門外の仕事を続けていた。

 その会社で必要となる電気部品の調達のために荒木は富士電気(後に分離し富士通)川崎工場へと赴いている。ここの研究室には日本最初のデジタル計算機を試作し、二進法計算理論の第一人者であった塩川新助が在籍していた。荒木が彼に直接会ったかどうかは不明だが、塩川は昭和30年代、そろばん製作会社の雲州堂に二進法そろばんの試作を依頼している。

 

 形を組み上げ、ある程度機能を推測した後、荒木の長八の発明品に関する研究は行われていない。開戦の影響があるのであろうが、その辺の事情については不明である。昭和20年2月10日以降群馬県内の軍需工場を主な目標とした空襲が始まり、市野井飛行場もその目標となっていた。4月4日の空襲では壊滅的な被害を受けており、巻き添えとなった石原神社も長八の発明品もろとも全焼してしまった。

荒木の記録した資料は少なくともその頃まで確かに自宅にあったようだが、空襲を避けて避難している過程で行方不明となり、現在に至っている。