妻有大井田家忍者屋敷
「五月八日卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ幡ヲ挙、綸旨ヲ披テ、三度是ヲ拝シ、笠懸野ヘ打出ラル、相随フ人々、(中略) 百五十騎ニハ過サリケリ。
此勢ニテハ如何ト思フ処ニ、其日ノ晩景ニ、利根川ノ方ヨリ、馬物具爽ニ見ヘタリケル兵二千騎許、馬煙ヲ立テ馳来ル、スハヤ敵ヨト目ニ懸テ見レバ敵ニハ非ズシテ、越後国ノ一族ニ、里見・烏山・田中・大井田・羽川ノ人々ニテゾオハシケル……」(参考太平記)
「太平記」鎌倉攻め冒頭の、劇的な場面である。
元弘三年(1333)五月八日、新田義貞は後醍醐天皇の勅書に応じ、上野国新田庄の生品神社の神前(現在の群馬県太田市新田市野井町)で倒幕の旗をあげた。しかし急な挙兵だったため、集まったのは近隣の一族百五十騎ばかりであった。
この勢力でどうしたものかと思っているところに、利根川の方角から二千騎近い兵がこちらへ向かってくるのが見えた。すわ敵の軍勢かと色めき立ったが、よく見るとそれは越後の一族、里見・烏山・田中・大井田・羽川の援軍であった。
清和天皇の流れをくむ源義家の次男義国の二子、義康、義重は、それぞれ足利氏、新田氏の開祖となり、義重の次男義俊は上野国碓氷郡里見郷に居を構えて里見氏を名乗った。
その里見氏が後に越後国妻有郷へ土着し、越後新田一門の五氏、里見・烏山・田中・大井田・羽川となる。
大井田郷がどこになるのかは諸説あるが、通説では旧中条村を中心とした地域ではないかとされている。
「太平記」に大井田氏が登場する記述は二十数カ所、期間にして二十年になる。その前後に関しては記述が無く、その他の文献をあたらねばならない。
康歴二年(1380)幕府は妻有庄を関東管領上杉憲方に与えている。
この時点で新田氏の勢力はこの地域には残っていなかったのだろう。新田家一門として南朝方で活動していた大井田氏は、越後の新田氏が滅びてしまうと、しばらくの間動静が途絶えてしまう。
北信濃の豪族市河氏に伝わる「市河文書」の中に消息が見えるのは応永十年(1403)のこと。
そこからまた百年近く動静が不明になり、十六世紀はじめ、越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の家臣として再び姿を現す。その後大井田氏の名前は上杉家の資料に散見されるようになる。
上杉家の家臣として米沢へ移った大井田氏は米沢大井田家となり現在に至る。またその他、越前、土佐へも一族が移っている。
こうして各地へ分散していった大井田一族は、断片的な資料を通じて、かろうじて記録を追うことができる。しかしその一方で、記録から漏れ、時間の流れと共に忘れ去られていった者共も相当数あったに違いない。
越後新田氏滅亡後、止むに止まれぬ理由でそのまま妻有郷に留まった大井田の者に関しては、記録が残っていない。
彼らはその後、いったいどういう経緯を辿ったのだろう。
大井田氏が仕えた長尾為景の子、上杉謙信は忍びの者を使うことで知られていた。
戦国大名は多かれ少なかれ忍びを使っていたが、謙信の忍びは「軒猿」と呼ばれ、武田の「透波(すっぱ)」と並ぶ、優秀な忍者集団であった。
大名達は山岳地の山伏を独自の情報網として利用していた。山伏の生業が薬の行商であり、各地の様々な情報を得られたかららしい。軒猿も情報収集にあたり、山伏、行商人、虚無僧、大道芸人、猿楽師などに姿を変え活動していた。
元弘三年の鎌倉攻めで、大井田氏がどうやって新田義貞の挙兵を知ったかについて、「太平記」には以下のように記してある。
「……大井田遠江守(経隆)、鞍壺ニ畏テ申サレケルハ、(中略)去五日御使トテ、天狗山伏一人、越後国中ヲ一日ノ間ニ触廻テ通候シ間、夜ヲ日ニ継デ馳参テ候。」
知らせてもいないのにどうやって気が付いたのかと問うた義貞に対して、大井田経隆は天狗山伏が越後国中に触れ廻ったからだと答えている。
もちろん本当に天狗が触れ廻っていたわけではない。この場合の天狗山伏は、上杉の軒猿の如き間諜であったのだろう。
とすると、大井田氏は新田本家にもまさる、優れた諜報能力を持っていたのではないかと想像することができる。その能力ゆえ、後に上杉に重用された。
大井田家の中心は妻有からは離れていったが、この地に留まった者が簡単に関係を断ち切るとは思えない。だが南朝に与みした家が、表立って活動することはできなかった。
そうした中で、自分たちの武器が強力な諜報能力だと自覚している者共が、生き残るためにどういった活動を始めるかは明らかだろう。
妻有に残った大井田の者は、地域にとけ込み、表向きは普通の生活を営みつつ、来るべき有事に備え修行を重ね、技を磨き、情報を収集した。
そして敵の侵入を阻むために、いつしか自宅にはさまざまな仕掛けがほどこされるようになっていた。
ここでは、それらを称して妻有大井田家忍者屋敷と呼ぶことにする。
鎌倉時代以降、武家が力を持つようになると、各地で土豪が武装化し地域を支配した。こうした土豪は、対立する土豪からの襲撃に備え、自らの屋敷の内部を改造し、脱出経路などを確保するようになった。
それらの中からやがて、忍者と呼べるような活動をはじめる集団が現れるようになる。
<忍具の例>
<変装術>
延宝九年(1681)に著された紀州流忍術秘伝書「正忍記」初巻には、忍びが携行すべき「六具」、変装する七つの職種「七方出」が記されている。
「七方出」は猿楽師、放下師、商人、出家、虚無僧、山伏、常の形、のことをいう。
人の集まるところには、猿楽師、放下師。神社仏閣には出家、虚無僧。街中には商人、山中には山伏。そして地域にとけ込む自然な姿は常の形。
忍びが姿をくらますための、その場その場にふさわしい姿を説いている。これらの職種に変装するにあたっては、それぞれの職業に特有の技術、知識を会得せねばならなかった。
情報を収集するにあたって都合がよいためか、常の形以外は回遊的な移動をする職業が選ばれている。
<伝達術>
忍者は機密性の高い情報のやり取りに、さまざまな伝達方法を使用していた。
・石置き 石を並べて文字を表す。
・苔置き 苔を植え付け、ある期間の後にメッセージが浮かび上がる。
・五色米 青、黄、赤、黒、紫に染めた米粒を撒き、色の組み合わせで連絡をとる。
・結縄 縄を結んで軒下などにつるし、結び目の形で意思を伝える。
・忍び文字
中国の五行説に由来する、木、火、土、金、水に人、
身を加えた七文字を偏に使い、色、青、黄、赤、白、黒、
紫の七文字を旁にする。
こうしてできた四十九文字でイロハ四十八文字を表す。
・手旗信号、飛脚火(左)
入手した信号を遠隔地に伝える方法。
昼間は手旗、夜間は入子火と呼ばれる道具で
中継通信した。
・隠書秘匿之法(右)
棒に和紙を巻き付けてその状態で文字を書く。
和紙を開くと、文字が判読できなくなる。
受け取る相手は、あらかじめ同じ直径の棒を
用意しておく。
<信仰>
通説で伝えられる忍者の祖は、修験道の祖でもある役小角(えんのおずぬ)とされている。
舒明六年(634)頃、大和国葛城郡(現在の奈良県御所市)の吉祥寺に生まれ、仏教を修行。金剛・葛城山地、二上山、高野山、箕面山などの近畿の山々はもとより、富士山をはじめとする名だたる名山を修行場とした。さまざまな呪法を使い、超人的な身体能力を身に付けていたという伝説が忍者のイメージと重なり、いつしか忍者の祖と呼ばれるようになったらしい。
経緯は不明だが、実際の忍者の信仰には、修験道、真言密教、陰陽道などの宗教的要素が混在している。
日本固有の山岳修験は密教と結びつき、呪術のみならず、金剛杖の杖術、剣術、観測、観天望、薬法へ発展してゆく。また山岳修行での軽快な重心移動は、忍者が駆使する独特の体術の基本となった。
敵中で唱える護身術「九字護身法」は「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」の九字を唱えつつ印を結ぶ。
九字は中国の道教に由来し、道士が山に入るときの呪文だった。印を結ぶ宗教的行為は、密教や密教経由でインドから伝えられたヒンドゥー教に由来している。
上は九字護身法の印。
下は陰陽道、易道に由来する陰陽印。各指の上げ下げの組み合わせで印を形作る。
片手で32種の印を結ぶことができ、両手を使うと、1024種の重複のない印を結ぶことができる。
中世に「悪党」と呼ばれた土豪集団は、浮浪人、芸能集団、杣(そま:木を切り出し、製材輸送する集団)など、土地に縛られない身分の者が集まって形成されていた。これら悪党が、後にそれぞれの土地で忍者集団へと変化してゆく。
このような土地に縛られない遊民、遊芸民は、天皇を中心とした律令制国家のもとでは「雑種賎民」と呼ばれ、天皇の土地を耕し租税を納める「良民」とは、はっきりと身分が分けられ、賎視されていた。
これらに加え、密教経由で日本に入ってきたヒンドゥー教の「穢れ」思想が、死や汚物にかかわる者への賎視を増長させ、「穢れの伝播」の考えは、そうした者の隔離の発想へとつながった。
さらに雑種賎民への賎視とも結びつき、非差別的な身分の固定化が進み、これらは現在にもその名残をみることができる。
雑種賎民には、先の浮浪人、芸能集団、杣などのほかに、出家、虚無僧、高野聖、鉢屋、茶筅などの托鉢僧、きこり、炭焼き、踏鞴者、猟師漁師、などの山・海の民、行商人、薬売りなどが含まれていた。
これらの多くは、忍者が情報収集にあたって変装する職種と重なっている。
悪党の起源、決して表にでることのない身分ということと合わせると、多くのことを考えさせる事実だろう。
*忍者屋敷図の元絵、図版の一部を「歴史群像シリーズ 図説忍者と忍術」(学研)より引用して
います。