千本引き調停機
神戸はその地理的条件から交通の要衝として発展し、港を媒介としてさまざまな人・物・地域をつないできた。奈良時代にはすでに「大輪田の泊」を窓口にし、中国・朝鮮をはじめとする諸外国との交易をかさねていた。鎖国を経て慶応3年(1868)の開港後は、国際貿易港として世界的な港へと発展してきた。
だが何ごとにおいてもそうであるように、発展という光はそれに対応する何らかの影を必ず落とすことになる。それらは表裏一体であり、切り離して考えることはできない。
港へ入った船からは、積荷を陸揚げしなくてはならない。永いあいだそれは全て人間の手で行われてきた。海上で本船からはしけに荷を降ろす作業員を、かつて沖仲士(おきなかし)と呼んでいた。海が荒れているときには危険が伴い、また大変な重労働であった。
大量の物資も荷揚げされなければ何の役にも立たない。その意味で彼らは、港町神戸、ひいては日本の経済的な発展を足下から支えていたと言える。
1950年代に姿を現し、70年代に急速に世界中に広まっていったコンテナ輸送は、それまでの荷役のあり方を一変させてしまった。それ以後の港湾物流はコンテナを中心に整備されてゆき、神戸港はコンテナ貨物の取扱世界一を誇っていた。港湾作業員達のコンテナ化反対運動もあったが、多くの沖仲士は職を失うことになる。
沖仲士自身にも影の部分はあった。港湾労働には重労働と引き替えの報酬に引かれ、さまざまな者が集まってきた。その中には素性の知れぬ者や、表だって仕事のできない者も混じっていた。立場の違いによる利害の衝突、こぜりあいは頻発し、そこから転じて、暴力的な徒党を組む輩も現れた。
こうした状況に対し、港湾労働者の相互扶助組織は、労働者間の争いや諍いをうまく調停する方法を模索していた。
港湾労働者同士に発生し、確たる証拠が無く、どうしても裁定できない事案を仲裁するための最終方法として、「千本引き調停機」は考案された。
基本的な仕組み、操作方法は縁日などで見かける千本引きくじと同じである。
千本引きくじはくじ部分が隠れているが、この装置では複雑な機構をあえて見せるようにしている。これは争いの当事者がこの装置による何らかの不正を疑わないようにするためとみられる。
装置は2体1組で1つの構成となる。当事者はどちらかの装置を選択し、入力部分のひもを引く。そのひものもう一方には裁定が記されている。
入力から裁定までに至る道筋の変換は、ある種の暗号のようなものだったらしい。そのため、見ただけではどのひもがどの裁定につながっているのかは分からなかった。