高野長英と中之条

 蘭学者高野長英と中之条のつながりは、沢渡の医師福田宗禎らの招きにより来訪した天保二年(1831)に始まる。記録よると中之条の蘭医たちはその後もたびたび長英を招いていたらしい。入門者も増え、この地域と長英の結びつきは次第に強くなっていった。
天保七年(1836)の「救荒ニ物考」は沢渡の福田宗禎、伊勢町の柳田鼎蔵の知見がきっかけとなり著された。二人はこの本の校閲も行っている。同じ年の「避疫要法」は横尾の高橋景作が編集を行った。また天保九年(1838)の江戸大火にあたっては、類焼した自宅再建のため材木を送るなど多大な援助を行っている。

 長英は天保十年(1839)蛮社の獄の弾圧を受け入牢した。
五年後の弘化元年(1844)牢の火災により切り放しを受けそのまま逃亡。放火脱獄犯として全国に手配される。


 その後長英がどのような経路を辿ったかは明らかになっていない。利根川沿いに上州へ向かったとの説もある。

長英脱獄の報は中之条にも伝わっていた。

師の消息を案じていた中之条の門人たちが再び長英に出会ったのは、厳しい捜索の手が張り巡らされた脱獄直後のあるときだった。



中之条の門人たち

中之条の蘭学にまつわる人々と、彼らがどのように長英をかくまったかを以下に示す。

五代福田宗禎 浩斎
 沢渡温泉の医師、旅館経営。天保二年長英を沢渡に招く。逃亡中の長英をかくまったと伝えられる。


柳田鼎蔵
 伊勢町の医師。出版費用援助、自宅新築援助など長英のよき後援者。

 自宅一階奥座敷に抜け穴があった。


高橋景作
 横尾の医師、蘭学者。長英塾の塾頭として長英に重んじられた。

 自宅裏山にあった文殊院に長英をかくまう。


根岸権六
 伊勢町代官。江戸屋敷へ行く機会に長英を知る。自宅に長英をかくまったとの言い伝え。

町田明七 明吉
 中之条の鍛冶屋。明吉は長英門下。

 明七は争議によって小伝馬町に入牢、牢名主だった長英と出会う。

田村八十七
 中之条の鍋屋旅館経営。町田明七と共に小伝馬町に入牢。逃亡中の長英を土蔵にかくまう。

 館内に「瑞皐の間」

湯本俊斎
 六合赤岩の医師。自宅に長英をかくまう。「長英の間」

高橋元貞
 吾妻郡岩島村生原の医師、蘭学者。逃亡中の長英を自宅近くの地蔵堂にかくまう。

望月俊斎
 中之条の医師。長英宅新築の際、材木を送る。

木暮俊庵
 伊勢町の医師。江戸の吉田長淑に学ぶ。同門に長英。上州の長英門下の最初か。